|
|
| 大衆乗用車の大量生産 -無謀と言われても自動車事業に進出- |
|
昭和5年4月、自動車に取り組む決意を固めてアメリカから帰国した喜一郎は、ただちに豊田自動織機製作所刈谷工場の一角に研究室を設け、大島理三郎ら技術者を集めて小型エンジンの研究を開始した。自動車の心臓部であるエンジンの研究から始めたのは、最大の課題にまずチャレンジするという考えによるものであり、それは佐吉の精神でもあった。喜一郎がエンジンの研究を続けている頃、政府は国産化奨励という方向へ進み始めていた。喜一郎は、大学の同窓である、隈部一雄をはじめ国産自動車に関与する高校・大学時代の友人のもとに通い、国産自動車確立についての政府・業界の動向を的確に知り、同時に多くの貴重な事を学んでいった。しかし、多くの人々は無謀だと陰で噂し、自動車工業がいかに難事業であるかを直接、忠告してきた者もいた。 昭和8年8月、岩岡次郎、白井武明らは、前年の秋以来取り組んでいたバイクモーターの試作10台を完成させた。喜一郎は日夜、東奔西走していた。全国各地の三輪自動車やオートバイメーカーや機械工場を見て回った。当局や業界の動きを的確につかみ、技術的な可能性を織機の現場で実際に確かめ、構想をまとめいった。「国産自動車はどうしてもやらなければならないし、またやれる」という意見を持っていた隈部とともに方針を固めた。到達した結論は「アメリカをそのまままねるのではなく国情に合わせた大量生産方式で、性能と価格の両面で外国車と対抗できる国産車をつくる」であった。もはや自動車に進出するか否かではなく、どのような自動車をどれだけつくれば経営として成り立つかを喜一郎は考え続けていた。 |