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| 倉庫の中の自動車部 -国産自動車工業の確立に燃える男達- |
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| 昭和8年9月1日、喜一郎はこの構想をはじめて社長の利三郎に打ち明けた。佐吉から受け継いだ豊田系企業を維持発展させるという重責を担っていた利三郎は、大手財閥でさえ躊躇したほどの事業に進出することには慎重にならざるを得ない立場にあった。しかし、確信に満ちた喜一郎の話に耳を傾けながら、国策の動向や好調な会社の業績などからみても、自動車に踏み切る時期にあると決断。自動車部が誕生した。 喜一郎は、刈谷工場内の倉庫の一部を確保させ、天井まで板がこいを作らせた。それができあがると、ひっそりと一台のシボレー乗用車が運びこまれた。さっそく千種治郎吉らの手によって、新車の分解がはじまった。白井武明がその分解した部品を原寸でスケッチし、岩岡次郎がその図面と部品現物を見比べながら手探りで材質を確かめていった。工場敷地のはずれにひっそりと倉庫の中で、自動車部が動きだしたこの日から、誰もが寝食を忘れ、国産自動車づくりという壮大な仕事に没頭した。 喜一郎は自動車部に優秀な人材を集め、同時に社外の専門家も動員し、8年11月には、豊田自動織機のライバル会社から菅隆俊を引き抜いた。昭和7年に試作された「アツタ号」のエンジン鋳造をてがけた菅は、まず製造工程の編成に取り組み、続いて自動車試作工場の設計にとりかかった。 国産自動車工業確立の意気に燃える男たちが日夜努力を重ねている間に、喜一郎は次のステップとして、大量生産を実現するための大規模な自動車製造工場を建設するために挙母(現在の愛知県豊田市)の用地取得を進めていた。
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