第4話
試行錯誤の日々
-自信があったエンジン鋳造でも不良品が続出-
劇画04 昭和9年1月29日、豊田自動織機製作所は、株主総会において資本金を300万円に増資し、自動車製造事業に進出することを会社として正式に決定した。同年3月、試作工場が完成。建屋こそバラック同然であったが、機械設備は日本では満足できないものは海外から買いつけるなど優秀なものを揃えた。そして5月、乗用車試作第1号車の具体的な設計方針も決定された。エンジン、シャシーおよび駆動関係部品はシボレーの純正部品をそのまま使用できるようにした。ボデーは、すでにこの頃から毎年、型を変更して大量生産されていたアメリカ車に見劣りせず、かつコスト的にもこれに対抗するには、流行の先を読んで斬新なスタイルにする必要があった。当時のアメリカの代表的な車は箱型から丸みを帯びてきており、喜一郎はデソートのエアフローを参考にして、時代の先端である流線型のスタイルを採用。A1型乗用車と名付けられ、いよいよ乗用車の試作が本格的に始まった。
 まず、1933年型シボレーのエンジンを見本にエンジン鋳造が始まった。エンジン部品の鋳造は紡織機の経験が生かせるため自信を持っていた。しかし、織機の鋳物と違い、エンジンの鋳物は薄く、複雑なため、一日に一個を鋳造するのがやっとで、しかもできあがるのは不良品ばかりであった。鋳型に用いる砂そのものから研究をし直したが、鋳物に中空の部分をつくるために入れる中子については解決策が見つからなかった。昭和9年7月、最新の自動車製造の知識を身につけるために渡米中だった菅が帰国し、フォード社の鋳物工場で学んだ油中子の方法を試した。しかし油中子をつくり注湯してみると、天井裏まで届く勢いで溶鉄が吹き出した。油の配合に工夫を凝らすが、毎日毎日、千数百度の鉄の湯が吹き上げられるばかりだった。試行錯誤の日々は続いた。