第6話
突然の方針変更 
-製造許可を受けるためにトラックを先行-
劇画06 喜一郎の宿願である試作乗用車が完成したにもかかわらず、周囲の状況は刻々と変化し、喜一郎の宿願をも大きくねじまげつつあった。満州事変の進展に伴い、対米英関係は悪化する一方で、軍は兵員や兵器を運ぶトラックを強く要求していた。喜一郎は早くもこの情勢をつかみ、シリンダーブロック鋳造に苦労していた頃からすでにトラックの設計、試作に取りかかっていた。このトラックはG1型と名付けられ、エンジンはA1型乗用車のものをそのまま使用し、フレームは丈夫で日本の悪路に適しているフォード式とした。
 昭和10年6月、喜一郎は突然、G1型トラックの本格生産、年内の販売を口にし、関係者を驚かせた。「試作もやっと軌道にのったばかりなのに年内販売は無茶だ」「完全な試作もせずにいきなり大量生産に移れるはずがない」など反対意見は多くあったが、喜一郎は譲らなかった。その背景には、自動車工業確立の立法化が近づいているという情報があった。豊田自動織機製作所がその製造許可を得るためには、できるだけ早くトラックの量産という実績をつくることが必要だった。そのためには本格的な設備を揃えなければならない。その話を喜一郎から聞いた豊田紡織支配人の
岡本藤次郎の仲介で、上海の豊田紡織廠の西川秋次が資金を工面し、二回目の増資を行った。
 A1型試作車は3台限りで中止され、月産200台をめざすG1型トラックの量産準備が急ピッチで進められた。