第8話
一緒にいい夢見よう
-ようやく本格生産に向けて動き出す-
劇画08 初代販売店となった名古屋の「日の出モータース」の山口支配人は、最初の販売台数を6台に限定し、あらかじめ厳選した相手先への販売を開始した。そして故障が起きればすぐに対応できるアフターサービス体制を組んだが、予想にたがわず、いたる所で故障が続出し、昼夜を問わずフル稼働であった。喜一郎は、自ら故障した車の下にもぐりこんで故障の箇所を確かめ、次々と設計や材質の変更を指示した。そして不具合が出た部品の在庫を皆の目の前で叩き壊すことを命じた。これらの努力によって改良の成果は歴然と現れ、間もなくトヨダ車に対するクレームは目に見えて減っていった。
 昭和11年に入ると、自動車事業もようやく混沌から抜け出し本格生産に向かって動きだした。神谷による一府県一社のディーラー網の整備も着々と進んでいた。2月には念願の乗用車の試作も再開。5月には刈谷組立工場が完成した。それに伴い従業員数は急速に増加。昭和7年までは500人前後だったその数は、11年には3500人を超す人数に膨れあがっていた。当時は優秀な人材を確保するのは容易ではなかったが、喜一郎は大衆車の国産化という夢を説き、優秀な人材を集めていった。
齋藤尚一豊田英二ら後のトヨタの発展を築くことになる人材はこの時期に入社した。「自動車がやれるか、やれないか、そんなことは誰が決めるものでもない。現に俺たちはもう後には退けないんだ。お前も技術者なら俺と一緒にいい夢見ようじゃないか」。喜一郎はそういって豊田英二を誘った。