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一緒にいい夢見よう -ようやく本格生産に向けて動き出す- |
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![]() 昭和11年に入ると、自動車事業もようやく混沌から抜け出し本格生産に向かって動きだした。神谷による一府県一社のディーラー網の整備も着々と進んでいた。2月には念願の乗用車の試作も再開。5月には刈谷組立工場が完成した。それに伴い従業員数は急速に増加。昭和7年までは500人前後だったその数は、11年には3500人を超す人数に膨れあがっていた。当時は優秀な人材を確保するのは容易ではなかったが、喜一郎は大衆車の国産化という夢を説き、優秀な人材を集めていった。齋藤尚一、豊田英二ら後のトヨタの発展を築くことになる人材はこの時期に入社した。「自動車がやれるか、やれないか、そんなことは誰が決めるものでもない。現に俺たちはもう後には退けないんだ。お前も技術者なら俺と一緒にいい夢見ようじゃないか」。喜一郎はそういって豊田英二を誘った。 |