昭和11年5月29日、自動車製造事業法が公布され、豊田自動織機製作所は、7月23日、他社にさきがけて許可申請書を提出した。9月14日には、東京丸の内で「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」を開催した。展示車両は、AA型乗用車4台、AB型フェートン2台、G1型トラックを改良したGA型トラックなど合計15台。なかでもA1型試作車を一歩進めたAA型は乗用車第一号で、全長4737mm、全幅1744mm、乗車定員5人、最高時速100kmという、いわゆる大衆乗用車であった。乗用車から特殊車までそろえたこの展覧会は、自動車にかける豊田自動織機製作所の意気込みを示したものであった。この記念すべき展覧会初日の14日、会場にニュースが飛び込んできた。この日、商工省で開かれていた自動車製造事業委員会の席上、豊田自動織機製作所が日産自動車とともに、満場一致で自動車製造事業法の許可会社に決定されたというのである。関係者の喜びは尋常ではなかった。9月19日、正式の許可書が交付された。喜一郎の遠大な構想のもとにスタートした自動車事業への進出は、ようやく事業として成功しうる基盤が整ったのである。
12月のはじめ喜一郎は「自動車部拡張趣意書」をまとめ、綿密な原価計算と収支予想を行った。これによると新工場が完成し、月産千五百台になれば、借入金の金利負担を考えても利益計上が期待できるというものだった。喜一郎は自動車事業に進出して間もなく、自動車部の分離独立を想定し、大量生産を可能にする工場の建設を考えていたが、今や完全にその見通しがたったと判断し、新会社の設立と挙母工場の建設を決断した。
昭和12年8月27日、豊田関係会社の発祥の地である名古屋市西区の豊田紡織の本社(現在のトヨタ産業技術記念館)において設立総会を開催した。翌日、新会社の設立登記を完了し、「トヨタ自動車工業株式会社」が誕生。資本金は1200万円、取締役社長に豊田利三郎、取締役副社長に豊田喜一郎が就任した。 |