第10話
量産へ一歩前進 
-日本初の乗用車一貫製造工場が完成-
 新会社設立の計画が急速に具体化していた中で、喜一郎から菅隆俊に一枚の紙きれが渡された。そこには「挙母に乗用車月産500台、トラック月産1500台つくれる工場を建設してください」と書いただけのものだった。その頃、月産200台が目標でありながら、実生産は50台程度だった。さらに第2期工事として月産2万台の工場を計画、月産2万台は日本中の月間供給量の実に10倍だった。菅は、岩岡次郎、豊田英二、齋藤尚一を集めて工場の建設構想を練り始めた。
 12年7月7日、日中戦争が勃発し、政府の生産力拡充の要請は日増しに強まり、自動車量産体制の早期確立は急務となった。そのため、新会社の設立は繰り上げられ、挙母工場の建設も急ピッチで進められた。しかし喜一郎は画期的な新工場とすべく、菅らに厳しい要求を出した。「大小30余の工場は、完全な自動車をつくることを目的として互いに緊密に連携させよ」「工場の内部でも専門化された機械を細胞組織のように結びつけよ」「機械は20年、30年先まで使うつもりで、何にでも合う機械をつくれ」など。また「倉庫が必要であるという常識をなくしてみろ」と指示した。これは刈谷工場で試みたジャスト・イン・タイムの本格的な実施を意味していた。
 昭和13年9月末、全工場が竣工し、10月末には、刈谷からの移転も完了した。62万坪の敷地内に、鋳物、鍛造、鍍金、ボデー、プレス、機械、塗装、組立などの各工場と、事務所、研究施設、さらに寮、社宅、食堂、グランドなどの厚生施設をも完備した、日本最初の大衆車一貫製造工場が完成。11月3日、喜一郎の手で工場始動のスイッチが入れられ、挙母の全工場は息を吹き込まれたかのように稼働を開始した。喜一郎の夢がまた一歩現実に近づいた。

劇画10