第13話
無念の工販分離 
-労働争議が長引き社長を辞任-
劇画13 乗用車生産への道が開かれ、喜一郎らは各種の開発を次々に進めたが、経営環境は厳しかった。世間では悪性インフレは加速度的に進み、トヨタの資金繰りも厳しくなる一方であった。昭和24年10月に乗用車の生産制限は解除されたが、同年3月に発表されたドッジラインの影響で、自動車産業は需要の激減と資金繰りの悪化という二重の打撃を受けた。この発表から翌25年3月にかけて、製造業を中心として1100社余が倒産、51万人余の解雇者を出した。トヨタも例外ではなく、「年末資金2億円の融資がなければ倒産する」という最悪の事態に追い込まれた。
 銀行団の協調融資によって昭和24年は辛くも乗り切ることはできたものの、その付帯条件として銀行側から示された会社再建案に対応して販売会社を分離独立させざるを得なかった。翌年4月にトヨタ自動車販売を設立することになった。
 24年12月、会社と組合は「賃金を一割引き下げる。是に対して、会社は人員整理を行わない」と覚書を締結し労使が一体となって危機突破を試みることになった。人員整理を絶対に承知しなかった喜一郎だが、情勢は予想していた以上に悪化の方向へ進んだ。25年4月、ついにストに突入し、会社側と組合の交渉は紛糾し、長期化していった。喜一郎は社長辞任を決意した。
 この争議は2カ月におよび、6月10日、労使が会社再建案に基づく覚書に調印して幕を閉じたが、新たな再建の一歩を踏み出すためには、喜一郎らの辞任、一部の工場閉鎖、希望退職者による人員整理という大きな痛みを伴わなければならなかった。