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情熱こそ無限動力 -喜一郎の宿願ついにかなう- |
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![]() 喜一郎の社長退陣表明が6月5日、朝鮮動乱勃発が6月25日、その間、20日間のひらきしかない。自動車に着手して20年余り、ほとんど全生涯をかけて忍苦を重ねらながら、このタッチの差で繁栄の時期を手にすることができなかった喜一郎だが、そんなたなぼた式の幸運には、何の未練も見せなかった。社長を辞任してからは、高血圧の療養に努めながら、好きな研究に日々を過ごしていた。長男の章一郎に戦後すぐから研究させていたプレコン建築の仕事や食料品製造に仕事に自分も参加し、衣食住にわたって数多くの事業化を研究した。そのうえトヨタ自動車とは別の小型大衆乗用車や、自動変速機の研究にも取り組んでいたのである。 石田退三らの懇請もあって経営陣へ復帰する日も近いと期待されていた矢先、喜一郎は倒れた。そのまま意識は戻ることなく、昭和27年3月27日、激動の57年の人生を閉じた。 父佐吉から「自動車はどうだ? あれは無限動力だ。わしの環状織機と同じようにあれは無限走路を走る機械だ。喜一郎、お前がやってみるがいい」と言われ、自動車というモノづくりにかけた喜一郎の生涯も、父佐吉の生涯の繰り返しだった。佐吉が発明した環状織機のごとく、世代から世代へとやむことなく、続いていく努力の根源である「情熱」こそ無限動力と言える。佐吉から喜一郎へ受け継がれたその精神は、現代のトヨタグループに脈々と受け継がれている。 喜一郎が亡くなって3年の月日が経った昭和30年の元旦、トヨペットクラウンの完成を祝う出荷式が挙母工場で行われた。喜一郎の情熱は、確実にトヨタの中で育っていた。喜一郎の宿願であった本格的国産乗用車がついに完成したのだ。 |