豊田舫織㈱に入社し繊維機械の技術者としての歩みを始めていた喜一郎は、1921年欧米への視察旅行に出発、すでに大衆の足となりつつあった自動車の発達に目を奪われた。1922年には英国プラット社で2週間以上にわたり研修し、紡績機械、工場設備、工場運営などの実情をつぶさに観察。この経験を踏まえ豊田自動織機製作所による紡績機械への進出を果たした。
1923年9月、大地震が関東地方を襲い、急速な近代化が進んでいた東京は壊滅状態となった。物流の主役であった鉄道が破壊され、復興の足となったのは自動車であった。鉄道に代わって輸入トラックが物資を運び、T型フォードの車台を緊急輸入してバスに改装した「円太郎バス」が大活躍するなど、自動車の有用性があらためて認識されるようになった。
自動車の普及が始まった日本市場に注目し、フォード社は1925年、GM社は1927年に日本にノックダウン工場を設立し、アメリカ車の国内生産が始まった。一方、1924年にオートモ号(白楊社)の発売、1926年にダット自動車製造の設立など、震災を契機に国産自動車製造の動きが活発になったものの、アメリカ車との競争には勝でず、小規模の生産量にとどまっていた。
1929年、プラット社からG型自動織機の特許権譲渡の依頼を受け、喜一郎はイギリスに行くことになった。その機会を利用してまずアメリカに行き、それからヨーロッパに渡り、欧米の自動車工業の実態を視察した。この2度目の欧米視察の後、自動車事業の研究に着手する。