「徹底したアフターサービスによって顧客に迷惑をかけないようにしよう。国産車を愛用してやろうという人々の期待を裏切ってはならない。」と考え、サービス体制の重視を販売政策の基本にとり入れたのである。
神谷正太郎「私の履歴書」より
喜一郎は自動車開発・生産とともに、その販売の重要性に当初から気づいていた。自動車販売の経験豊かな人材が必要と考え、当時日本GM社の副支配人・販売広告部長の神谷正太郎を招聘し、販売部門を任せた。引き続いて、花崎鹿之助と加藤誠之も日本GM社から豊田自動織機製作所に入社した。