1949年3月に実施されたドッジライン(財政金融引き締め政策)の影響により、わが国の経済は極度の不況に陥りました。トヨタ自動車工業株式会社も運転資金が底をつき、創業以来最大の経営危機に直面します。労働争議が頂点に達すると喜一郎は社長を辞任、石田退三を社長とする新経営陣が誕生しました。ところがその2ケ月後、朝鮮戦争勃発に伴う「朝鮮特需」により業績は一気に好転します。石田社長は就任当初から「業績回復の暁には、喜一郎を再び社長に迎えいれる」と明言しており、喜一郎本人も社長復帰の要請を受け入れました。しかし、1952年3月、喜一郎は57歳で突然逝去してしまいます。