お知らせ
2025年5月の館長コラム
「国民車構想」から70年
トヨタ産業技術記念館 館長の大洞和彦です。
本年2月の館長コラムで1955年1月の初代クラウン発売について触れましたが、この日本初の本格的国産乗用車の登場は、当時の日本の自動車産業にさまざまな影響をもたらしました。そのひとつが、同年5月に通商産業省がまとめた「国民車育成要綱案」(通称:国民車構想)です。
これは、国が定めた条件をクリアする自動車を募り、財政資金を投入して育成を図るという構想でした。販売価格などの条件の厳しさから開発は不可能と見られていましたが、同時期にトヨタは国民車構想とは別に豊田英二専務(当館初代理事長)の指示で小型乗用車の開発に着手していました。
この小型乗用車は、試作段階での駆動方式の変更など紆余曲折を経て、5年後の第7回全日本自動車ショー(1960年)にトヨタの大衆車として出展。車名は公募され、1961年6月に発売されました。それが初代パブリカ(UP10型)です。国民車構想に端を発した新車開発はパブリカにつながり、日本に大衆車市場が形成されるきっかけとなりました。ちなみにパブリカとはPUBLICとCARの合成語で「国民から愛されるクルマ」を意味し、110万通近い応募の中から決められたそうです。
国民車構想から今月でちょうど70年。国民車も大衆車も死語となり、軽自動車を含む小型の乗用車はすっかり社会に溶け込んだ存在となりました。そのルーツには官民挙げての取り組みがあったことを、あたらためて思い起こしたいと思います。
(参考文献:「トヨタ自動車75年史」2013年、p.171-173)
初代パブリカ(UP10型、写真提供:トヨタ自動車)